カテゴリー : 状態メモ

Twitter、iPhoneとかヤンキーとか

 

最近、blogはUPしていないし暇だったので、最近感じたことを箇条的につぶやいてみます。。。

 

個々のTwitterをまとめリストにする

Togetter http://togetter.com/

で、炎上系まとめリストをダラ見。

Twitterも2ch化しつつある感。そもそも、Togetterも2chっぽいし。

リプライして著名人にツッコム気もわからないでもないが、2chもそうだが根底にルサンチマン自己顕示欲を感じる。(自身にもそう感じる)

真面目に討論してみても結局、暇つぶし、その時だけの優越を得たいだけのよう。

「ネット住人」の域を出ない卑小さ。

 

TwitterのTLでRT、QTされないが、自身のつぶやきや情報のパクリっぽいフォロアー(リスト含め)のtweetを見かける。

そこに情報の共有と自己顕示の関係を観る。

Twitter等のSNSに限らず、インターネット、情報送信・発信の促進は、情報取得の速さは競うが情報の希少さ、特異さは無くなる。

つまり、情報の共有化、シェア化

そして、Twitter等のSNSにより、情報取得の速さも無くなりつつあろう。否が応にも、皆と同じ情報を得てしまう。

しかし、Twitter等のSNSでは、その情報取得の速さを顕示するかのようにtweetする(したくなる)心理が働く。(まだまだ速さに価値があるのだろう)

「自己」を「顕示」したければ、本来は情報をclosedした方が情報の希少さ、特異さは高まり「自己」の評価も上がると思うが、SNSでは我先にとなり、瞬時にその情報の希少さ、特異さが無くなり、「自己」と小数しか知らない情報では無くなる。

この矛盾は社会学的に見ればおもしろい意味合いが含まれる。

 

三池 崇史監督の十三人の刺客にハマリ、クローズ1・2も観る。

男(オス)しか持ち得ない「暴力」「ロマンティズム」を汗臭く、緊張感に溢れテンションの高い描写で描く、武骨な3本。

女だったら即妊娠してしまうような、濃厚なスペルマを掻けるかのよう。

3本総てに出演している山田孝之の演技が、テンション張り詰めていて最高。

一命も期待。(海老蔵は多分鼻血もの)

ヤンキー流れで品川庄司の品川監督、ドロップも観る。

期待しないで観たが、喧嘩だけにスポットしない、ビーバップハイスクール的な物語展開が良く、おもしろい。(色々エピソード詰めすぎて、途中ダレルが)

水嶋ヒロが何気に良い。。。

クローズとドロップが売れ(よく行くレンタル屋では未だに平置き)ちょっとした「ヤンキー」ブームと云われたりするが、わかる気もする。

世の中はiPhone4Sを欲しがる人ばかりではない。(俺の周りにはスマホを持っている奴がほとんどいない)

 

世の中はiPhone4Sを欲しがる人ばかりではない、と書いたが自身は最近iPhone3Gを入手。

ソフトバンクのiPhone4S無償交換した弟から、要らなくなった3Gを譲り受ける。

3Gなので4Sと比べると色々と出来ないことはあるが、「iPhone」のPhoneを抜いた「iPod」機能を使え経験することは結構大きい。

「App」という機能、概念性はやはり特質。

スマホでAppを使うことにより、辞書機能も「遊び」になる。

自身は音楽系Appで遊んだりすることが多いが、英単語の学習をAppですると苦にならなかったりする心理が働くことに驚く。

音楽を聴きながらAppで学習、なんていうことを通勤電車の中で出来る感覚は、やはり新鮮。

iPhoneのハード自体が持つ、気軽さ、大きさ、軽さも絶妙であろう。

しかし、当たり前だが、ハードもAppも慣れると「普通」になるところがまた驚く。生活を変えるとはこのことか?(携帯電話が変えた生活とは違う次元、概念)

個人的にはポッドキャストが良い。ラジオの良さを再認識。

自分はdocomoキャリアなのでアンドロイド系のスマホ及びタブレットをチェックしてみたが、微妙に違う、なんかイライラした。

理由はよくわからないが身体的感覚で拒絶反応が出る。iPhoneびいきの偏見で思い過ごしではないと思う。

 

実はNON BRAND名義とMaggieM’gill名義の新作デザインが幾つかあるが、思うところあって発表していない。

デザインに関して感慨があるのではなく、個人的な心情が原因。

まあ、たいした理由ではないので、近い内に発表しよう。。。

消費活動としてのTシャツインディーズブランド

1新作Tee、プリント屋に発注して、ライブハウス1公演レンタル分とほぼ同等なコストと思う。

アマチュアバンドetcの活動は、すべてがプロになれるわけではなく、またプロを望んでいるわけでもなく、非日常的なイベント(祭り)として楽しむ在り方もある。(最近はDJイベントかも)

その一夜限りのワンナイトパーティーなライブ活動は、レジャー的な消費活動とも云える。(皮肉でなく)

 

中国製の日本メーカー安価無地Tシャツに、オリジナルプリントをして販売するインディーズブランド。

生活費を除いた所得をオリジナルTシャツプリントの経費とする。

インディーズブランドの活動は、すべてのブランドがTシャツで食えるわけではないが、非日常的なイベント、趣味として割り切り楽しむブランドさんはあまりいない、と思う。

 

バンド(DJ)と比べ、イベント(祭り)が少なく、在庫を抱え、イベント(祭り)が主でなく、「商品」が主になるからだと思う。

ファン(お客様)とのコミュニケーションは商品を介した「商売」で必然的に繋がる。

 

バンド 「ノっているかい!?イエー」

ファン 「イエー」

の、ファンが返す「イエー」は、Tシャツを購入してくれることに代替する。

 

新作Teeを出して、それなりにペイし、その売り上げから次の新作Teeを発表することが出来る、ということはファンが「イエー」と返しライブが盛り上がっているということ。

しかし、Tシャツが売れないブランドはイベント(祭り)を提供出来なくなる。

在庫が増えるということは資金が回らないということと、単にライブが盛り上がっていないということ。

 

ここ数年Tシャツインディーズブランドと標榜して活動してきたが、

自身も含め「Tシャツインディーズブランド」とはレジャー的な消費活動(創作活動と言っても構わない、概念性は結局主観であり自由)と捉えたほうが正確だと思う。

レジャーは遊興費である。遊興費は、「余裕」

この「余裕」がブランドさん、お客さんにもあったので「商売」としては成り立たなくとも継続出来ていたところがあったと思う。

また、中国製の日本メーカー安価無地Tシャツを個人で利用出来る構造的な経済的恩恵もある。

(中国製だと何故安いのか?安くなかったらそもそも個人でブランドなんか出来ない)

 

しかし、レジャー的な消費活動として継続、もしくは今からTシャツインディーズブランドを始める人は少なくなっていく気がする。

(当ブランドもTシャツはドロップシッピングに移行)

もしかしたら、インディーズブランドTeeを購入する人も少なくなる気もする。

 

結局、経済的なことを源泉としてどんな活動も行われるというオチ。

「商売」として回るブランドだけ残る。

そうなると「インディーズ」もくそもない、単なる自営業である。

「Tシャツインディーズブランド」としてのカテゴリーはつまらなくなる気がする。

(ローコストローリターンでやりたいことを継続することを、主軸に於く方法論、活動へのシフトが当ブランドの意向。本来、「インディーズ」とはそういうもの。)

 

体感的な直感だけれども、震災後から確実に「余裕」がなくなりつつある。

エネルギーの問題だけでなく、確実にパラダイムシフトは始まっている気がする。

(エネルギーの問題は環境だけではない、確実に仕事は減る)

 

 
PS 震災後、要らない物は要らないという当たり前のことが起きつつある。Tシャツなんかホント要らない、という自虐観が頭もたげる。また、余裕無き日常に潰される恐れも無きにしも非ず。

敬虔な悪魔


「神」に背くこととは「神」信じるという他ならない。
背く存在が存在しなければ成立しないからである。
「背く」ということは、その背く対象の「力」「影響」を高く評価することに他ならない。
高く評価しなければ背く意義がないからである。
つまり、神的なことに反逆することとは、逆説に信仰していることが前提となり、
また、その教えにも精通していなくては出来ない行為であり在り方である。
そして、否定することは「死」であるが、
背くことは「殺す」ことである。
(フロイトの謂うところのエディプスコンプレックス、父親殺しか?)
我、神に背く者なり
反逆者
神の存在を信じ、その力を恐れる故の存在なり
矛盾
故、「神が死んだ」とは言わない
「神を殺す」と宣誓
これを悪魔と謂う者なり
神が存在する故、我、被造物、神の子なり
信仰するが故の子
子故の、可能な背神
我、敬虔な悪魔なり

無常=日常

twitメモ。ほぼ妄想である。
『妻子も父母も財宝も穀物も親族やそのほかすべての欲望までもすべて捨てて、犀の角のように、ただひとり歩め。』
これは厳しい。
総てを捨てられれば、喜びもなければ苦しみもない、のは当たり前。
たしかに道理だ。
唯独。
「人間」という概念を捨てるということと取れる。
実存的には動物や昆虫のように生存すれば良いということと同義ではないか。
概念を持たない生命には、喜も苦もありようがない。
「人間」から観れば、たしかに「楽」である。寂静である。
仏道の体系から観るに、「植物」や「菌」が至高の在り方に思える、ニルヴァーナに近い在り方に思える。
彼らには憂いも差別も喜びも妄想も無い。
しかし、「生命」である。
「認識」を是とし植物等を「生命」の体系から除外するならば、あまりにも「人間」的である。
「人間」的発想から始まり、「人間」を「人間」として成らしめている「もの」を捨てるとはどういうことか。
最後には「言葉」が残るし、「言葉」を超えた「体感」を是とするにしても、
やはり「人間」を捨てる、辞めると言うほかない、のではないか。
「人間」として存在する限り、救われないし答えもないし絶対もない。
宗教、思想、哲学、生活等に拠り所はない。
皮肉にもこれこそ「無常」ではないか?
まさしく、一切が苦。
「空」で在る。
「日」が「常」にあるのみ。
無常=日常

「死」はあるのか?

twitしたものをここにもUP。メモ的に。
死があるからこそ、生があるのである。死の無い、生なぞ無い。
死がなければ「これ」にどのような意味、価値があるというのだ?
つまり、「死」がなければ「歓喜」も無い。
「生」に於いて「死」こそが至高なり。
然るに、輪廻は「恐怖」である。そして然るに、恐怖は「輪廻」の因になる。
そして然るに輪廻する、つまり、「死」ねないのだ。
死にたいと願うことは欲望か?
だとしたら然るに、「死」ねないのだ。
では、どのように「生」きれば良いのか?
「死」が無くては「生」は無いのである。
「死」に因り「生」を果たすということは、「解脱」するということである。
しかし、解脱をするということは「俗」を捨てた、ということである。
これに於いて「仏道」の絶対的意味性の証明になっているだろうか?
そうなると然るに「俗」的な「わたし」の日常は「無」に帰す。
「意味」が無いということ。
そして、「生」きてもいないということ、か?
拠るところは「輪廻」である。
そもそも「輪廻」はあるのか?
そして、輪廻を脱するところの状態、もしくは次、もしくは無、である滅するところの
「死」はあるのか?
ということに帰する。
そう、そもそも「死」というものはあるのか?
否、
そもそも我々は「生」きているのか?
「生」とは何だ?
「死」とは何だ?
確かなのは「今」が「在る」ということだけだ。
では、問う、「在る」とは何だ?
何なのだ?
そしてこの問いに帰す。
「何だ?」とは一体「何」なのだろう?

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Illegitimate Son
Of
a Rock n’ Roll star.

Roll on, roll on,
Maggie M’Gill.

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