カテゴリー : 状態メモ

十善と十戒(倫理の始まり)

下記は原始仏教に於ける
「十善戒」
である。
? 不殺生・ふせっしょう(故意に生き物を殺しません)
? 不偸盗・ふちゅうとう(与えられていないものを取りません)
? 不邪淫・ふじゃいん(みだらな性的関係を持ちません)
? 不妄語・ふもうご(嘘をつきません)
? 不綺語・ふきご(無駄な噂話をしません)
? 不悪口・ふあっく(乱暴な言葉を使いません)
? 不両舌・ふりょうぜつ(他人を仲違いさせるような言葉をいいません)
? 不慳貪・ふけんどん(異常な欲を持ちません)
? 不瞋恚・ふしんに(異常な怒りを持ちません)
? 不邪見・ふじゃけん(因果、業報、輪廻等を否定する、間違った見解を持ちません

Wikipediaより

下記はユダヤの律法である、
「モーセの十戒」
である。
? 唯一神礼拝( 主が唯一の神であること)
? 偶像禁止(偶像を作ってはならないこと、偶像崇拝の禁止)
? 神名濫称禁止(神の名を徒らに取り上げてはならないこと)
? 安息日厳守(安息日を守ること)
? 父母への尊敬(父母を敬うこと)
? 殺人禁止( 殺人をしてはいけないこと)
? 姦淫禁止(姦淫をしてはいけないこと)
? 盗奪禁止(盗んではいけないこと)
? 偽証禁止(偽証してはいけないこと)
? 貪婪禁止( 隣人の家をむさぼってはいけないこと)

Wikipediaより

「モーセの十戒」に於いては前半は宗教規定であるが、
後半は倫理規定である。
そしてこの後半の五つの倫理的規定は
「十善戒」のうち、
「五戒」と言われる五つの戒律のうちの四つの戒律にほぼ重複し、
プラスひとつ戒律を加えるとほぼ同じく対応する。(仏教の五戒とは、十善戒の元。不飲酒が入る)
 不殺生 = 殺人禁止
 不邪淫 = 姦淫禁止
 不偸盗 = 盗奪禁止
 不妄語 ≒ 偽証禁止
 不慳貪 ≒ 貪婪禁止

また、仏教新興以前の古代インドの民族宗教バラモン教の
「五つの大なる誓戒」
にも、
 ? 生命を傷つけないこと
 ? 偽りを語らぬこと
 ? 盗みをしないこと
 ? 婬事を断つこと
 ? 何ものを所有しないこと

ほぼ重複、対応している。
「五戒」と「モーセの十戒」は共に
紀元前600年頃にまとめられたと言われている。
(ちなみにユダヤ教、バラモン教の誕生は共に紀元前1300年頃である)
ガンジズ河流域とユダヤの地とで、ほぼ同じ時代に同じ形式で倫理的戒律が成立したのである。
この辺り民族誌学的(移動)にも興味をそそられますが、
「倫理」
的に、ほぼ同じことを説くところが
「人間」
という存在形成に於ける原理性が有りそうで興味を覚えます。
これらの五戒律は、特定の宗教を信仰しない現代人でも同意出来る「倫理」感である。
否、「倫理」と云えばこの五戒律と言っても間違いではない、言い過ぎではないほど、我々が抱く
「倫理」
そのものなのではないだろうか?
つまり、「倫理」とはその時代のその人達が考えたり、信じたり、標榜したりするものではなく、
端に受け継がれてきたもの、刷り込まれているものなのではないだろうか?
何故、この五戒律の行動概念性を打ち立てたのか(それの因)は誰も解らないが、この世界
「生きる」
と言うことに於いてこの五戒律の行動概念性が
「善」
ということだと考えられたからに他ならない。
つまり「生きる」ということに於いて、
何かしらの理由に於いて(おそらく感覚に於いて形成される不快、苦)
「善」
という概念が生じ得なくてはならない必然、希求が生じ、
また、
「倫理」
という概念もまた生じたのではないだろうか?
(すなわち、ここに於いて「悪」も生ずる)
だからと言って倫理など抱く必要もない、守らなくてもよい、ということにはならない。
倫理は「倫理」である。
ひとつの「概念」が端に生じた、始まったというだけである。
端に我々の抱き持つ「倫理」感は
これらの五戒律に端を発し
受け継がれてきたもの、刷り込まれているものなのではないだろうか?
という疑問である。
ps広義で云えば、地球上総ての人間的感情、思想、価値などは、
ユダヤ教やバラモン教等の古代宗教言説に原理があるのではないだろうか?
なので「人間」の原理が「宗教」的言説なので宗教はなくならない。強い。基本。(信仰しないのも信仰では?)

「わたし」とは?

稀に頭のなかに言葉が溢れ出してくることがある。
何かのきっかけで溢れ出し、ほとんど思いつきで、また総ての事が手につかなくなる。
そういう時は書き留めると治まる。
今回もメモ的に・・・。
「わたし」とは「物語」人格自我化である。
「人間」というものは自明ではない。
「言語」に於ける「言葉」によって紡ぎだされる、語り、「物語」である。
「わたし」とは「物語」の人格自我化である、の、「人格」「自我」も、もちろん「物語」ということになる。
「わたし」というのは「物語」上は実存であり現像であるが、「物語」が在って、故、成り立つ仮像である。
わたしが「わたし」の「物語」を物語る「人生」、という事での「わたし」ではない。

「わたし」自体が「物語」自体なのだ。
わたしは言葉で語られる物語で在ったのである。

七つの大罪と自己利益

昨今の
自己利益
の追求とは
七つの大罪
の是認と言えなくはないか。

七つの大罪
・邪淫
・貪食
・貪欲
・怠惰
・憤怒
・羨望
・高慢

欲望」は人の行動の
源泉ではある、が
それが「」になる境界は
如何なる上に。
「物語」のひとつの規定ではあろう。
が、
「自己」の「利益」の「追求」であるからではなかろうか。
自己否定の契機。
自己の限界への配慮を、
自己の利益の追求よりも優先する。
自己の無益、無力を知るということに於いて、
自己の利益、有益さを知る、得る。
「七つの大罪」
は総て、自己の「肯定」に於ける自己の利益の「欲望」である。
宗教心も倫理観も行動規範も
「自己」に於ける
「自己」
が源泉である。
「汝自身を知れ」
とは古代ギリシアの賢人の格言と言われている。
知る
ことには、前提として「肯定」してしまっていては
永遠に「知る」得ない。
汝 = 自己
森羅万象、総ての認識、認知は
「自己」
を源泉とする、しか有り得ない。
(他者のこころ内はわからない、物理下のこころ内などもっとわからない)
「罪」
とは
「自己」
の不理解である、
否、
盲目的な「自己肯定」である。

即ち、
汝を知らずして行う行為は
これ「罪」である。
自らして、自らがわかっていないのだから、
その自らの「行い」もわかっていないこととなり、
それこそは
「罪」
ではないのか。
「わたしは間違っているのではないか?」
から。
psそして七つの大罪映画、「セブン」も。

神的なものと人間的なものとの二項対立。に於ける「罪」の意識の観念機能原理。

神(GOD)       ⇔    世界(WORLD)
永遠(ETERNITY)    ⇔    時間(TIME)
存在(BEING)     ⇔    生成(BECOMING)
静(REST)       ⇔    運動(MOVEMENT)
不変(PERMANENT)   ⇔    変化(CHANGE)
現前(PRESENCE)    ⇔    日在(ABSENCE)
一(ONE)       ⇔    多(MANY)
聖(SACRED)      ⇔    俗(PROFANE)
秩序(ORDER)     ⇔    混沌(CHAOS)
意味(MEANING)    ⇔    虚妄(ABSORDITY)
生(LIFE)       ⇔    死(DEATH)
無限(INFINITE)    ⇔    有限(FINITE)
超越的(TRANSCENDENT) ⇔    内在的(IMMANENT)
同一性(IDENTITY)   ⇔    差異性(DIFFERENCE)
肯定(AFFIRMATION)  ⇔    否定(NEGATION)
真理(TRUTH)     ⇔    誤謬(ERROR)
現実(REALITY)    ⇔    幻影(ILLUSION)
確実性(CERTAINTY)  ⇔    不確実性(UNCERTAINTY)
明瞭(CLARITY)    ⇔    混乱(CONFUSION)
正気(SANITY)     ⇔    狂気(MADNESS)
光(LIGHT)      ⇔    闇(DARKNESS)
視力(VISION)     ⇔    盲目(BLINDNESS)
不可視(INVISIBLE)  ⇔    可視(VISIBLE)
精神(SPIRIT)     ⇔    肉体(BODY)
霊的(SPIRITUAL)   ⇔    肉的(CARNAL)
心(MIND)       ⇔    物質(MATTER)
善(GOOD)       ⇔    悪(EVIL)
潔白(INNOCENT)    ⇔    有罪(GUILT)
無垢(PURITY)     ⇔    穢れ(STAIN)
正当(PROPER)     ⇔    不当(IMPROPER)
有中心的(CENTERED)  ⇔    脱中心的(EXCENTRIC)
第一次的(FIRST)   ⇔    第二次的(SECOND)
原作(ORIGINAL)    ⇔    模造(IMITATION)
自然的(NATURAL)   ⇔    奇形的(MONSTROUS)
有目的(PURPOSEFUL)  ⇔    無目的(PURPOSELESS)
正直(HONESTY)    ⇔    二枚舌(DUPLICITY)
高さ(HEIGHT)     ⇔    下位(DEPTH)
深層(DEPTH)     ⇔    表層(SURFACE)
内側(INTERIORITY)  ⇔    外側(EXTERIORITY)
話し言葉(SPEECH)   ⇔    書き言葉(WRITING)
真摯(SERIOUSNESS)  ⇔    戯れ(PLAY)

MarkC.Taylor
或る関係「A」と或る関係「B」との二項対立の中に巻き込まれ、
それらの二項対立の「位置」付ける「意味」との関わり、企投に於いて、
「罪」という「意味」が産出する。
自分を、
或る「関係」の体系、「世界」に於いての「神」的なものとの関わりに於いて、
「人間」的なものとしての「わたし」を位置付け規定することにより、
「神」的なものの有する諸項との対立項としての
「わたし」
である存在として、「罪」を意識し「罪」を規定する。
その「罪」は、
或る関係性に於いての意味連関、秩序、
全体的世界を支えている体系へと視的であれ盲目的であれ意識的であれ無意識的であれ、
適合、承認、内包しているからであり、
実存的な心理的内面的問題である以前に、
存在論的に観念機能的であると思われる。
psレポート終わり。

「行動」の原理は「恐れ」である。そして「自由」である。

「行動」の原理は「恐れ」である、という仮定、否、メモ。
「ワタシ」の存在の時間性に於ける「未来」は未決定である。
「未決定」故、「私」の存在領域に於いての存在可能性を選ぶ。
コーヒーが飲める状況の「此処」に居る

コーヒーを「飲む」「飲まない」可能性が有る

コーヒーを「飲む」ことを選ぶ
つまり、「わたし」の存在という領域に於いて「ワタシ」の有り方は「自由」で或る。
しかし、「私」の存在の時間性の中に於いて、
そう「未来」に於いては「未決定」性を有しており、なにも「決定」的な
「ワタシの存在」
を有していない。
もしかしたら、コーヒーを「飲む」ことを選んでも飲めるとは限らない、ということ。
(自分で飲む前に他者に飲まれるとか、端に失敗する、こぼすとか)
「未決定」性、故、「私」は「未来」に、
つまり「わたし」と云う「存在」の有り方、現出に
「恐れ」
を抱く。
「幸せ」になりたい (ならないのも自由)

「幸せ」の存在可能性を選び、「行動」する

「幸せ」になれないかもしれない (未決定性)

「恐れ」を抱く (「不幸せ」は嫌ということ、コーヒーを飲みたいのに飲めないのは嫌ということ)

「幸せ」の決定性は無いが、「幸せ」の可能性も、また有る

「ワタシ」の「自由」に於いて、「幸せ」の存在可能性を選び、また「行動」する
まとめ
「私」の「存在」の時間性の中に於いて、
「未来」に企投する「行動」
「未決定」性を有する。
故に
「恐れ」という感情を抱くが、
「わたし」の存在領域に於いての存在可能性は無くならず
「ワタシ」の「存在」の基本構造はあくまでも
「自由」である。
ps 総ての「行動」は「未来」の不確実性、畏怖性、故かもしれない。
当たり前か。「未来」が決定、確実性を有するならば、「行動」しなくとも「決定」「確実」だし、故に「恐れ」も抱かない。

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Illegitimate Son
Of
a Rock n’ Roll star.

Roll on, roll on,
Maggie M’Gill.

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