「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」
(ギャーテーギャテーパラギャーテーパラソーギャテー)

これは、般若心経の最後の部分です。
苫米地英人さんのblogに面白いエントリーがあったので、
紹介しつつ、メモ的にUP。
(苫米地さんはトンデモ的な人と扱われることが多いですが、その扱い方は逆説的に苫米地的ビジネス戦略に嵌っているかと思う)
この最後の部分はサンスクリット語で意味が無いため、
訳されずマントラとして読まれてきた部分だそうです。
それを苫米地さんは、
紀元前4000年ぐらいに遡る、筆記された言語としては最古のものである
シュメール語
で訳しております。
詳しくは苫米地さんのblogを読んで頂くとして、翻訳結果としてこうです。
「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」(ギャーテーギャテーパラギャーテーパラソーギャテー)
↓↓↓↓↓↓↓
“I (we) shall, (let me/us) be, I shall (let me) be, let not le me be, let me must not be, so therefore, I shall (let me) be.”
「とありたい、とありたい、とありなくないとありたい、からこそとありたくない、それでとあるのだ。」

(パラギャーテの部分追加)
訳してみると、「空」のお経らしく、「色即是空」、「空即是式」の繰り返し強調とも合致しているようにもみえる。
「空」ですよ、「空」
釈迦がマントラを否定していたのは知らなかったけれど、
浅い認識として「経」とは、
「マントラ」、私の勝手な認識としては
「マントラ」 = 「音」「sound」
を介しての身体反応を即す「行為」
の手段としての「経」、「マントラ」だと解釈していた。
例えば、低周波を聴く、浴びたりすると変な気持ち(イイ気持ち?)になったり、反復ビート(4打ちとか)を聴いているとそれなりにビートに乗っている自分がいたりとか。それにより、精神状態も高揚していたりとか。
瞑想も然り、と解釈していたが、
苫米地さんの翻訳で解釈すると、もう少し思想的、真理的な解釈教義の意味合いで読むのかなと感じます。
勉強不足なのでよく解らないけれど、そもそも
「経」
とは何の為、どのような意味合いで読むのだろう?
何故、釈迦は経を読み、マントラを否定したのだろう?
色々と興味が湧きます。
そもそも、
「空」
とは何か?
想像できると仮定すると
私たちが現に経験している範疇で「空」を想像すると
「熟睡」
している状態、その時がまさに私たちが経験している「空」では無いのか?
否、
それは
「死」
では無いか?
いや、そもそも「空」とは概念であるから「想像」は出来ない・・・・・・・。
なんにせよ「熟睡」している状態、経験が「空」や「死」に近いかと少し思います。
もちろん「熟睡」している状態、経験なんてものは主体的に認知出来るものでは無いですから、なにも「想像」していることにはなりませんが・・・。
それが「空」、もしくは「死」かなと・・・。
どうも、頭が悪いのに色々と語り始めたものだから、まとまりがありませんが、それだけ興味がそそりますね、
「空」というものは。
この目の前の世界「これ」は。
苫米地英人blog全文
シュメール語『般若心経』
http://www.tomabechi.jp/archives/51015268.html#trackbacks