とりあえず、上の画像にある、真ん中の白い点を30秒以上見つめ続けて下さい。
どうです?
世界が変わったでしょ(笑

これで解るのは、我々は現実に物理状態で存在する、
その「もの」自体を見ているのではなく、
視覚から入ってきた光、情報を脳で処理して、
その「もの」が在るとして
「見ている」
ということにしている、ということが解ります。
イメージ的には脳内のTV画面を、
また別の脳内で見ているという感じでしょうか?
つまり、
「見ている」
「もの」

は演算処理された「情報」であり、「記述」であり、
あなたの脳が情報を画像処理した
「創作」
であると思うのです。
上の画像を見つめたら目の前の「もの」が歪んで見えたと思いますが、
実際には歪んではいません。
錯覚です。
しかし、脳が視覚情報処理に失敗し、錯覚を起こしたとは云え、
「わたし」
の目(脳)には歪んで見えているのです。
それを「創作」と呼んでも、そう外れているとは思いません。
目→感受→脳→形成→心→認識→「あ゛〜歪んでる!!!!」
そしてこの「創作」をわたし達は
「現実」
と言います。
ベンジャミン・リベットという生理学研究者が自身の著書で「感覚」について次のように語っています、
「刺激を感覚として気づくためには、0.5秒以上持続する反復的な刺激が脳の感覚皮質に与えられる必要がある。従って、感覚意識の発生は刺激の開始から0.5秒遅延せざるを得ない。」
『マインド・タイム 脳と意識の時間』より
つまり、わたし達が「現実」と認識している
今、この瞬間は
0.5秒前の世界
だということです。
錯覚に限らず、わたし達は物理世界の
「そのもの」
自体の実存を
「そのまま」
「認識」はしていない、出来ていないということになります。
(時間の扱いや量子論的にも色々あるのだろう)
しかし、現実的には問題は一応ありません。
何故なら、
「問題」
が無いからです。
そもそも、「現実」そのものが認識出来ないとしても、
このようにわたし達は「生活」しています。
それが「創作」であろうと「虚偽」であろうと、
「問題」が無ければ問題は無いのです。
逆説を例えて云うと、
精神を病んだ人に「問題」が有ると云うのは、
その病んだ人の現実「認識」に縁る、
「現実」と思われるこの「世界」での生活に
「問題」
が発生するからです。
逆に云うと、
その病んだ人の現実「認識」が変わらなくても、
生活に

「問題」

が無ければ問題は無いのです。
(精神を病むというのはこういう曖昧な定義になるだろう)
天才やアーティストには変な人がたくさん居ます(笑
「変」でも精神を病んだりしないのは「社会」と接点を持ち、一応「生活」
「問題」
が無いからです。
我々の「世界」への、認識に縁る不確実性を感じないでしょうか?
この「創作」運動、
「認識」

「現実」
を創っていて、非常に曖昧なものだということを感じ、
「認識」
出来たかと思います。
ん!?
そう、これも 「認識」 なのです。
では、この

「認識」

「創作」では無いのでしょうか?
「言語」も、また「情報」であり、
その「情報」をまた
「脳」
は言語処理、演算し 「認識」 しているのです。
現実世界への認識に揺らぎを感じないでしょうか?
しかし、いい加減、自分でもよく解らなくなってきたので、そろそろ終わりにします(笑
読みづらくてすいません。
世界は、わたしは、
不確実故どうにも成らない。
そして、どうにでも成る。