twitしたものをここにもUP。メモ的に。
死があるからこそ、生があるのである。死の無い、生なぞ無い。
死がなければ「これ」にどのような意味、価値があるというのだ?
つまり、「死」がなければ「歓喜」も無い。
「生」に於いて「死」こそが至高なり。
然るに、輪廻は「恐怖」である。そして然るに、恐怖は「輪廻」の因になる。
そして然るに輪廻する、つまり、「死」ねないのだ。
死にたいと願うことは欲望か?
だとしたら然るに、「死」ねないのだ。
では、どのように「生」きれば良いのか?
「死」が無くては「生」は無いのである。
「死」に因り「生」を果たすということは、「解脱」するということである。
しかし、解脱をするということは「俗」を捨てた、ということである。
これに於いて「仏道」の絶対的意味性の証明になっているだろうか?
そうなると然るに「俗」的な「わたし」の日常は「無」に帰す。
「意味」が無いということ。
そして、「生」きてもいないということ、か?
拠るところは「輪廻」である。
そもそも「輪廻」はあるのか?
そして、輪廻を脱するところの状態、もしくは次、もしくは無、である滅するところの
「死」はあるのか?
ということに帰する。
そう、そもそも「死」というものはあるのか?
否、
そもそも我々は「生」きているのか?
「生」とは何だ?
「死」とは何だ?
確かなのは「今」が「在る」ということだけだ。
では、問う、「在る」とは何だ?
何なのだ?
そしてこの問いに帰す。
「何だ?」とは一体「何」なのだろう?