寝ながら学べる構造主義 (文春新書)を読んだ時のプチリポートが出て来たので、メモとしてUPしておく候。
●「存在すること」
とは与えられた状況の中でじっと静止しており、自然的、事物的な存在者という立場に甘んじること。
静止していることは「堕落すること、禽獣となること」である。
ヘーゲル→マルクス 受け継ぐ。
大切なのは「自分のありのままにある」に満足することでなく、
「命がけの跳躍」を試みて、
「自分がそうありたいと願うものになること」である。
ヘーゲルの人間学(マルクス主義→実存主義→構造主義 ヨーロッパ思想に一貫して伏流)
「自己意識」
俯瞰な視座から、自分の周辺の事態を一望すること。
「他者」の視線になって「自」を振り返る。
想像的に確保された「私」からの距離が高いほど、自己認識の正確さを保証。
ポジショニング
「人間はかれによって創造された世界の中で自己自身を直感する」
「労働するものだけが、『私は』ということばを口にすることができる」
主体性の起源は、主体の「存在」にではなく、
主体の「行動」のうちにある。
他者との関わりのなかに達成。
生産=労働関係のネットワークの中での「ふるまい」を通じて、事後的に知る。
●フロイト 無意識
「患者本人が意識することを忌避している、無意識的な過程」
抑圧
「自分は何かを意識化したがっていない」という事実を意識化できない
功利主義
自然状態にある人間は、当然ながら、それぞれが自己保存という純粋に利己的な動機によって行動。
自然権行使→絶えざる戦闘状態(バトル・ロワイヤル)

自分の生命財産を安定的に確保することはきわめて困難

圧倒的強者を除き、ほとんどの個人が所期の自己保存、自己実現の望みを絶たれる

自然権行使の全面的承認は、自然権の行使を不可能にするという背理が生じる
故に、社会契約に基づき創設された国家に自然権の一部を委ねるほうが、私利私欲の達成が確実
功利主義者によって想像
利己主義→利他主義 な皮肉
「なすべきこと」「してはいけないこと」という善悪の規範が成立
●ニーチェ
「ナチュラル」と思われる価値判断や審美的判断を、歴史的に形成された偏見や予断であるとしない見方。
普遍的に妥当だと信じ込んでいる。
自分が「何ものである」か、どんな仕方で「思考している」のかを知らない愚物。
「隣の人と同じようにふるまう」ことを最優先に配慮するようにして成り立つ社会→大衆社会
非主体的な群衆→畜群
相互参照的に隣人を模倣、集団が限りなく均質的になることに喜びを感じる→奴隷
超人思想
過去のある時代における社会的感受性や身体感覚のようなものは、
「いま」を基準にしては把持できない、
過去や異邦の経験を内側から生きるためには、緻密で徹底的な資料的基礎付けと、
大胆な想像力と知性が必要
●ソシュール
ある観念があらかじめ存在し、それに名前がつくのではなく、名前がつくことで、
ある観念が私たちの思考の中に存在するようになる。
言葉が出来、概念が生成する
(アメリカ人は肩がこらない{肩が凝るという言葉が無い})
私が語っているときに私の中で語っているものは、そのかなりの部分が
「他人のことば」だとみなして大過ない
「私」という主体を中心にして回る、「私」が外部に働きかけてデータを集め表出するという考えが、西洋の中枢

自己中心主義
「一般言語学講座」
●フーコー
時代や地域に関わり無く、いつでもどこでも基本的には「同一的」なものと人は信じている。
しかし、すべての社会制度は、過去のある時点に、いくつかの歴史的ファクターの複合的な効果として「誕生」したもので
それ以前には存在しなかった。
「いま・ここ・私」→一直線に「進化」してきた過程として捉えている

これを歴史の進化の最高到達点、必然的な帰着点とみなす考えを「人間主義」(自我中心主義)
「いま・ここ・私」というのは、歴史の無数の転轍点において、
ある方向が「たまたま」選ばれたことによって出現したものに過ぎない。
(都合のよいところだけを選ぶ、取捨選択)
狂人→近代社会での「人間」標準になじまないもの→「何であるかが解った」(医療)→「大監禁時代」
「理性」による狂気の排除
「ソフトな隔離」への以降。医療と政治の結託、「知の権力」の結託
身体もまた「意味によって編まれた」社会制度
「歩く」動作なども、固有の歴史的・場所的条件に規定されて「歴史化」されている
(明治時代はナンバ歩行だった、明治以降虚勢)
「政治的身体」は生理的・物理的な実体である身体とは別の水準に確固として存在
政治権力が臣民をコントロールしようとするとき、
国民の身体を統御し、標準化し、操作可能な「管理しやすい様態」におく、
「従順な身体」を造型することを最優先にする
「既成秩序への反逆の意識、自分が秩序紊乱者でsることの自覚、
現状を憂い未来を呼び求める熱情。
権力に抗して語ること、真実を述べること、享楽を約束すること、
啓蒙と解放と肉の快楽を一つに結びつけること、
知への熱情と掟を変えんとする意志と夢見られた愉悦の楽園とが一つになった言説を語ること、
これらが、おそらく性を抑圧の語法で語ろうとする私たちの熱情を内側から支えている」
「これらの性行動のすべてをカタログ化し、一覧的に位置づける。
あらゆる性行動を無秩序に列挙しているように見せかけながら、
実はそれらを現実のうちに整序し、個人のうちに統合すること」
●バルト
「記号」→「あるしるしが、何かを意味すること」→「紳士用」という文字→人為的な取りきめ
如何なる社会的、自然的な結びつきもない
人為的につくられた「しるし」を
「意味するもの」シニフィアン
「意味されるもの」シニフィエ

「記号」
「兆候」→「黒雲」と「嵐」→自然的な因果関係→人間の制度が介在する余地がない
「象徴」→「てんびん」と「裁きの公正」→現実的な連想
言語の「不可視の規則」
?「ラング」国語
?「スティル」文体・個人的好み
?「エクリチュール」ことばづかい・集団的に選択され実践される「好み」(『ぼく』から『俺』)
テクストが「そのテクストを読むことができる主体」へと形成する
テクストと読者の、お互いを基礎づけ合い、お互いを深め合う、双方向的なダイナミズム、「絡み合い」の構造
「テクスト」が生成するプロセスにはそもそも
「起源=初期条件」というものが存在しない(作品等)

テクスチャー
わたしの言葉は、そもそもわたしの言葉なのか→エクリチュールの零度への夢
願望も禁止も命令も判断も、語り手の主観の介入を完全に欠く
ヨーロッパの言語・「欲情する言語」
俳句・自制するものの前にのみこそ真の美的価値を開示

意味を与えて、解釈に決着をつけることへのきびしい抑制→「言語を中断させること」
●レヴィ=ストロース
「実存する」と言う動詞は語義的には「外に―立つ」
自己の存立根拠の足場を「自己の内部」にではなく、
「自己の外部」に「立つ」

サルトル、実存主義
主体は与えられた状況の中での決断を通じて自己形成を果たす
「未開人の思考」と「文明人の思考」の違いは発展段階の差ではなく、
そもそも「別の思考」

「その『我思う』の虜囚」実存主義に筆誅を加えた
未開から文明へ、停滞から革命へと進む、単線的な歴史プロセスの上で
すべての人間的営みの「正否」を判定する傲慢は許されない。
「閉じられた社会」とこれまでよばれてきたものに固有の狭隘さを示す
二項対立の組み合わせを重ねてゆくことによって無数の
「異なった状態」を表現することができる音韻論(0/1二進法)
あらゆる家族集団は、必ずどちらかの選択肢を選ぶ
父ー子/伯叔父ー甥の場合
(0)父と息子は親密だが、甥と母方のおじさんは疎遠である。
(1)甥と母方のおじさんは親密だが、父と息子は疎遠である。
夫ー婦/兄弟ー姉妹の場合
(0)夫と妻は親密だが、妻とその兄弟は疎遠である。
(1)妻とその兄弟は親密だが、夫婦は疎遠である。

この構造は考えうる限り、存在しうる限り最も単純な親族構造である。親族の基本単位である。
兄弟姉妹、夫婦、親子がそこに含まれていなければいけない
人間が社会構造を作り出すのではなく、社会構造が人間を作り出す。
親族構造は端的に「近親相姦を禁止するため」に存在する
近親相姦が禁止されるのは「女のコミュニケーション」を推進する為

「存在し続ける」ため

「反対給付」によってしか均衡を回復されない
「お返し」をしないと気がすまない
「贈与」

社会は同一状態にとどまらない(滅ばない)

変化

もうひとつの理由
「人間は自分が欲しいものは他人から与えられるという仕方でしか手に入れることができない」
3つの水準でコミュニケーション
?財貨サービスの交換(経済活動)
?メッセージの交換(言語活動)
?女の交換(親族制度)
●ラカン
原始的不調和(統一性を欠いた身体感覚、根源的な無能感、つまり不快感)
「寸断された身体」(妄想、幻覚、悪夢)

鏡像段階(統一的な視覚像)

子供は「私」を手に入れる

ある種の自己同一化として、つまり、主体がある像を引き受けるとき
主体の内部に生じる変容として、理解(自我)

始原的な型の中に身を投じる

「私でないもの」を「私」と「見立てる」
ことによって「私」を形成するという虚構を抱え込む
「私」の原点は「私の内部」にはない
ある種の狂気
被分析者(患者)の語ることばには「核」があります。
ただし、物語の「核」とは必ずしも「真実」のことではない

聞き手(医者)に自分が何ものであるかを知ってもらい、理解してもらい、承認してもらえそう
だと希望するので、語る(過去を)

「無意識の部屋」

記憶とはたしかな「実体」ではない。
それはつねに「思い出されながら形成されている過去」である

被分析者の語る物語の奥底に存する「根源的な疎外」
治療を進行、取り除くのではなく「聞く」(物語を語る、創る?)
被分析者の「満たされなさ」を核としていく生成展開する

真実は問わない

症状は患者のなかにわだかまる「作品」として表出(病む)
「自我」→「言葉の核」
主体が「私」として語っているとき、そのつど構造的に主体による自己規定、自己定位の言葉から逃れ去るもの、
それゆえ言葉を語ることを動機づけるもの
「私」
相手のいる対話の中で
「私は・・・である」
という言い方で自己同一化を果たす主体
「主体」→「自我」「私」は主体の二つの極
二つの距離をできるだけ縮小することに全力する(外的な私と意識しない内的な私?)
他者とことばを共有し、物語を共作すること。それが人間の人間性の根本条件。
「社会化」プロセス→「エディプス」

「父性の威嚇的介入」

「記号による世界の分節」(近親相姦の禁止)

この世界は「すでに」分節されており、自分は言語を用いる限り、
それに従う他無い、という「世界に遅れて到着した」ことへの自覚を刻む

「不条理」
世界をあらかじめ差異化しているという「真理」を学習

「大人」
(怖いものに屈服する能力を身に着ける)
「私」の自己実現と自己認識が「うまくゆかない」場合の「原因」に擬されるものは
すべて「父」と呼ぶことが可能。

「父」の干渉によって、「うまくゆかない」ことの説明を果たした気にねれるような
心理構造を刷り込まれることを「成熟」と呼ぶ
「鏡像段階」と「エディプス」の2度の自己欺瞞をうまくやりおおせたものが
「正常な大人」「人間」という。(概念)
精神分析の場合、普通はエディプスの通過に失敗している
(鏡像段階を通過していないと「私」がそもそもない)
「自分についての物語」を
「父」と共作し、「父」に承認してもらう
コミュニケーションの不調を、コミュニケーション回路可能に戻す
「物語を共有すること」
レヴィ=ストロース → みんな仲良くしようね
バルト → 「ことばづかいで人は決まる」
ラカン → 「大人になれよ」
フーコー → 「私はバカが嫌いだ」